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近年は、ブログにあまり仕事のことについて書いていなかったが、先日、約5年勤めた社員が退職した。またここ1~2年、私がうちの仕事へどのように参加すべきかの見直しも秘かに進めており、一定の方向へ気持ちが固まったこともあって、いざ、あらたなスタッフを募集することになった。
とうぜん求人広告を出したり、紹介会社へ相談したりと、出会いのご縁を得るため準備に忙しい。けれども、そういったサービスの担当者には決まって「経験は?」「年齢は?」「休日はどのくらい?」と同じようなことを聞かれ、答えてはいますけど、そこを基準にされてもうちの面白さは伝わらないのに、、、と実のところ辟易している。

せっかくだから、私の思う仕事観というものを書いてみる。
アイデアパンチに限らず、会社の求人へ応募する人には、ぜひともその会社のHPやブログぐらいには目を通してから来てほしい。どんなデザインで、どんな頻度で更新をしているかも会社情報の一つだ。特にうちへ入社となれば嫌でも私とむきあって、付き合っていかねばならないので、飯島とはこういう人間なんだ、ということを検討の参考にしてほしい。

私はこの会社を興して11年目になるが、その前の約14年はずっとサラリーマンだった。男女雇用機会均等法の施行後の就職だったが、バブルが弾け世間の風もズレて吹く地方都市だったので、数年あとから入社した新人男性より給料も安かったし、仕事のチャンスもあと回しだった。どうせ女が担当ならあっちの美人に替えてくれと顧客の社長に言われたこともある。それが良いことだとは思わないが、しかし昨今の平等思考は間違いだと思っている。誰にでも同じだけチャンスがめぐってくるとは限らない。
仕事とは、そもそも競争だ。試合のように勝ち負けみたいなものが全てにある。アイツより、あのチームより、あの会社よりもいいものを、いい動きを。その基準は、仕事の内容や個々人の心構えによってぜんぜん違うので、ここで表現するのはまたおってでも。

私はデザインの専修学校を卒業したが、そこで習ったものは、なにひとつしっくりこなかった。デザインも、イラストも、版下も、写真も、何も面白くなかった。いや、何のとりえもなかったということを早々と自覚して斜に構えていたのかもしれない。
新入社員面接の場で、将来何をしたいか聞かれたとき「私は、なんでもいいから考える仕事がしたいです。もちろん、早々にそんなことができるようになるとは思えないし、そのような職種が世の中にあるのかもじつは解らないんだけれども、いつかは、ものを考える仕事がしたいと思っています」
デザイン学校卒だったから、面接に出てきた担当者はエース級のグラフィックデザイナーだった。明らかに困惑の色が浮かんだ顔を見て、私もニコニコするしかなかった。コイツは何を言っとんじゃ、こんな程度のセンスで、ってなとこだろう。

からくも採用され、いくつかの会社を転職して、広告制作業という範疇に身を置きながらも、仕事にはしがみついた。二社目に転職してからは「仕事がしたかったら、自分でとってこい」という環境だから、新規開拓もやるしかなかった。だから営業職となったけれど、かならず製作物の進行にかかわり、印刷や加工は現場を見に行き、プレゼンはなるべく自分でやった。コピーの一語一句にも口を挟んだから煙たがる製作者もいたし、私を嫌う人もいたし、人と衝突することもあった。30歳も過ぎたいい大人に「あんたのせいでオレの仕事はメチャクチャだ!」と泣き叫ばれたこともある。
それだけでなく、苦労してとってきた仕事だけど「やってくれる人」を探して右往左往ということもしょっちゅうあった。この経験があるから、腕のいい仕事仲間を適当にあしらう人は本当に理解できない。しかし絶対無理だと思うような内容でも、寝る時間を削れば人間3か月ぐらいまでは無理できるものだし、この人にこそ私の仕事をお願いしたい!と思える人がいれば、ありとあらゆる手で断り切れないようにしたり、土下座もいとわなかった。

でも私はたんなるトラブルメーカーだったわけではない。
これらのゴタゴタがむしろいい味わいに思えるぐらい、お客様には恵まれて、喜ばれてきた。
転職するたびに、外部の協力会社からはうちで働かないかとお誘いがかかったし、顧客からは惜しまれ、食事をごちそうになったり送別会をやってもらったり、次の職場が決まったら必ずまた連絡するようにと連絡先をくれた人も老若男女、数え切れない。
私との打ち合わせの時間を楽しみにしてくれて、嬉々としていろんな準備をしてくれる担当者もいたし、困った、助けて~といっては面倒くさくて時間の無いことばっかり連絡してくる人もいたし、雑談したら何時間も止まらず帰れないということも多々あった。思い出すと感慨深い。

だからみんな私のように苦労せい、そういいたくて書いてるのではない。
社長だからって偉そうに、って言われても別にいいのだけれど、みなさんと同じ会社員時代というのもたっぷり経験してきていますよ、ということを想像して欲しいし、職場環境は大事だ。私の経験はもう過ぎたことで、笑い話のつもりで書いている。

私のいいところは、手に入れたような気がするものには恋恋としなかったところだと思う。
こだわりが、ないのだ。
どなたにも感謝の気持ちは最大限伝えてきたが、次の環境は自分の力で見つけてきた。なぜなら、辞める理由には、次に手に入れたいと思う「何か」があったから。そのためには評価された場所からの人づてではなく、全く新しい環境へ身を置くことが重要だと自然に思えた。地区大会で優勝できたからといって、次は隣町の地区大会に参加するのでは意味がない。全く居心地の違う、他県での試合参加を目指すような感じで転職先を探していた。

90年代半ば、背伸びして日経の求人欄を見ていて、まったく向こう見ずにも外資のコンサルティングファームに応募したことがある。記憶ではアーサーアンダーセンという名前の会社だったと思う。今でもあるのかどうか知らないけれど、おそらく「専修学校卒で札幌在住のイモネーちゃんには、わが社の求人広告の意味すら分からんだろう」てなところだったろう。住所でも間違えたかと思うぐらい「送ったまんま」の状態できれいな履歴書が戻ってきた。しかし私は求人広告に書いてあった戦略業務の中に、SPという一文を見つけたからの大真面目な応募であった。

「考える仕事」への希望と「販促物の企画製作」で得た経験がひとつになると短絡的に思ったが、まぁ若くてアホだった。でも、私の話をチラとも聞いてもくれないとは、この会社もアホだと思ったし、いつか後悔させてやるとも思ったわけで、そういう意味でも私は素直な人間だった。

いつも大きな試合を終えた気分になってから転職を決めていた。札幌の会社からスタートし、東京に本社がある会社の地元採用から頑張って転勤するチャンスをつかみ、上京して転職をさらに経て、と、とても充実したサラリーマンの14年だった。
けれども、行き着いた先には何もなかった。あんなに頑張ってきたのに、こんなもんかと、きっと誰よりも自分が驚いた。

なんとかひねり出した結論めいたものは「結局、雇われている限り自由にはやれない」。
狭量な上司に従うか、時間を浪費するだけで大義の無い業務に参加して、くだらない社員同士のナワバリ争いの一端を担うのは本当に嫌だった。
顧客はみな、どの会社も愛情たっぷりに好きだったから、こうしてあげたいと思うことを実行させてもらえないのも嫌だった。
だからといって、私はやりません、というのは、もっともっと嫌だった。

そうしたら、結局会社を作るしかなかった。そうして「考える仕事」をやりたくて旗揚げしたのがここ、アイデアパンチである。

次はアイデアパンチの「考える仕事」について書きます。

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