この商売、頭が回らないと無理と実感するひとつに撮影があります。とにかく頭を使いまくる。いい仕事した時ほど、終えた達成感とグッタリ感の味わいは格別。
見る人に「意図した印象を抱かせる」ための表現を探すのが私たちの仕事。どんな場面でも、何かを伝える必要に追いまくられる。特に人を動かす仕事の場合は相手が誰であれ「伝えてナンボ」なんです。
撮影は「この世に実在するもの」しか撮れない、根性や念力では無理。あたりまえだけど。
それを素敵に視覚化するため、クライアントに「被写体をどう見せたいか」尋ねる。相手が口達者な説明上手でも「どう見せたいか」整理して話せる人は少ない。こちらに必要なのは推察力と理解力。つまり「言わんとするところ」を想像力フル回転で聞きとるわけである。
私は若い頃からこの作業に入ると、決まって後頭部の左下がじーんと温かく、シビレてくる。
じっさい「こういう、ドバーっと」って言われ、よくよく聞くと照明を一つ明るくすれば済む話だったりする、ホントに人は千差万別の表現を持っているのだ。とにかく「ひたすら言語化」し、相槌という体裁でキーワードを投げ返すのである。
こちらから違う写真を例に出したりなんてのはもってのほか。他人が違う目的で作ったものを基準にしても話が逸れるだけだし、考える醍醐味も薄れてしまう。相手がぶつけてくる言葉や手段にヒントがどっさり隠れている。
概ね把握したら、今度はカメラマンへ伝える。これがまた巧のトランスファー、である。
クリエイターは大抵理解力にクセがある。それが個性なので「あのね、あれをこうしたいんだって」で済む話はほぼ皆無。似たような写真が事前にあれば撮る必要が無いので、だいたいが「この世に存在しないものを理解させる作業」になる。未知との遭遇が習慣化してるから、できるカメラマンは頭がいい。
ピンと来た人間は不思議なもので感嘆の音を出す。どの言葉でピンときたか、あるいは「あぁ~。」の音色と相手の性格を照らし合わせて、私の意図が伝わったかどうかを判断する。ここが熟練のワザなんだよね結構。
昔勤めていたアシスタントに「土鍋でお願いするように」と伝えたら「郷土色豊かに」とトランスファーし、現場に行って「ナンじゃコリャ?」ってなったことがある。「変だと思ったけど、あんたのアシスタントがそう指示したんだよ」とイヤミまで言われガックリであった。こうして、この商売をやり続けると、返事の声色で納得度合いが分かる、間違った理解内容まで読める。そして心情どころか、味も音も色も空気も、すべてを言葉で表現する人間になっていく。
シャッターを切ったらじいっと画面を見る。私が言語化したものが、意図通り視覚化されたか考える時間。固唾をのみ沈黙が数分続くこともある。この水を打った静けさに耐えられない人は、じつは空気を読めていない。撮った方も、撮りを依頼した方も「これがその答えなのか」を、ありとあらゆる視点から猛スピードで検証する。
この沈黙時間が短いほど良い写真(か、全然ダメな写真)。沈黙が長い時は、その時点で既にどこがどうダメかの思考に切り替わっている。一番こまるのは「なんだかヘンだ」というもので、この「まちがい探し」のようなものは、長引くと最もヘビーな作業になる。
よし。これでどうだ!と思ったら、立ち会っているクライアントへ目の前の写真にどういう意図があるかを言葉で伝え了承を得る。
でもたいていはOKかNGかの即答なんだけどね。これでOKが出たら、初めて1カット終了。
これを1カットあたり10分でキメ、休み無く12時間続き、二日間続いた計算になった。
だから、喉が枯れるほど喋ったけど会話は無く、へとへとのハイテンション、てなことになっちゃうのね。クリエイターに口うるさいのとか、妙な人が多いのは、しょうがないのよ。こんなのが年中続くんだから。
(飯島)