最近このテのフレーズの言葉が残る犯罪が多いことに胸が痛みます。少なくとも数年前には未だ「誰でもいい」ということは、口にしにくい表現のひとつで、周りの目をはばかる表現だったと思うのに・・・。
どうしてこうなるのか、勝手に考えてみた。
ちょっと推敲しないで書いてみます。
思うに。
この人の周りには「誰でもいい」ことしかなかったのではないだろうか。
仕事も、人付き合いも、友人も恋人も、もしかしたら家族も。
「あんたじゃなくてもいいんだけど」って思われることにどっぷり、めいいっぱい浸っていて、それが当たり前の毎日で、何日も何年も繰り返していると、無意識のうちに、世の中には「誰でもいい」以外の選択肢があるということを忘れてしまったのではないか。
「誰でもいい」の対極が「君ならでは」だとすれば、「君ならでは」の評価を得るのは決して楽なことではない。わずかでも秀でたと思われるところを探し、無理をしてでもポジティブ思考し、育てる努力をする。これは本当に何年もかかる、辛くて長い道のり。簡単に捨てられない。
極論だろうか。
努力を放棄するのは実に簡単。あっという間に「誰でもいい」世界へ転がり落ちてしまう。若い人には人生を前向きに考えて欲しいし、そういう社会であるべきだ。
そして、手っ取り早くラクな道を選んではいけない、そこに落ちてはいけない、踏ん張らねばならないと教えなくては。
私は、派遣社員という考えは嫌いだ。そもそもが「その日、そこに来てくれれば誰でもいい」という考えが根底にあるもので、企業はそのつもりで人員充足を依頼する。働く方も「勝手に休んでも、代わりが行けばそれでいい」ことに慣れてしまう。誰も気にしない、居なくても気に留めない、そういったことが積み重なったとすれば、感覚は麻痺していくと思う。
会社を経営すると、いろんな若者と出会う機会に恵まれ、いろいろな家庭環境を垣間見ることが多くなった。彼らはみな、自分がどこに立って、誰に愛されて今に至ってきたか。そもそもの自信がつくように、大人は子供を愛し、その愛を教えるべきじゃないか。
人間の根っこはそこにあるような気がしてならない。
アイデアパンチは周囲とどんどん「君ならでは」の関係を作れる環境として存在できたらいいと思う。