高齢になっても運動を欠かさず筋力を維持し、健康維持に努めましょうという「ロコモ」。
ここ最近テレビでもよく見かけるけど、元気な年寄りを増やさないと保険費がかさんでしょうがない、という厚生労働省の腹積もりも多分に含まれている。ピンピンコロリは、本人だけでなく、周囲にもいい話。
でもこの話、実は運動するのと同じぐらい重要な「食べること」が割愛されていることが多い。
例えば「毎日ずーっとテレビの前に座っていて、週に1回買い物のため出かけてついでに外の空気吸ってます。往復で徒歩20分の運動です、だって年だからもう食べる量も減ったしねぇ」なんて生活はダメだということ。
運動とは言えないレベルででも体を動かして、お腹を空かせ、食べて栄養を消化・吸収し、排泄する。休むことで心身の活力を得て、また動くエネルギーが生まれる。人はこのサイクルを日々継続していないとならない。書くと面倒なことにも読めるが、要は「フツー」の人生。
これを逆になぞると、こうなる。
動かないと
→空腹を感じず食べない
→栄養が足りなくなる
→消化するために必要な体力も減る
→栄養を吸収しにくくなり、体に負担がかかる
→食べるのが苦痛になり、少食になる
→力がわかず、だから動かない
・・・というように、実によくできた負のスパイラルをゆるやかに下り続け、悪循環へようこそ、となる。食べるということはすごく大事なのだ。
この話を、体調をくずしてからの母へこんこんと説いたが、もう遅かった。人は、元気で、栄養が体に回ってないと、マトモに話が通じません。
戦中・戦後で食べることにそれなりに苦労したはずの母は、産地や鮮度にはこだわっていたけれど、その割には食べることをさほど重視しなかった。食べたものでからだが作られている、という原則が抜け落ちていたように思う。
母自身も、気がのらなければ食べなくてもいい、そうしたら太ることもないしね、という考えがどこかにあった人。
専業主婦でもあり家事全般に熱心で、家はいつもすっきりピカピカ。子どもや夫、義母(私の祖母)に食べさせる「仕事」にとても一生懸命な人だった。だから晩年になって母の食に対する考えに気づいてエーッと驚いたけど、60歳過ぎに夫(父)を失い、人生初めての独り暮らしを何年も経験してきたのだから、価値観が変わらない人間のほうがおかしいよなぁとムリヤリ理解を示してしまった。
それが良くなかったと今ならわかる。
入院し始めのころ、ぬるくて(冷めてて)、においもくさい、まずい病院食を、味気ないメラミンの食器で毎日 3度も食べさせられて苦痛だと言っていた。
温かくも冷たくもないものを食べるのは辛いという。確かにある日の入院食を見ると、俵に小さく握ったごはん2個、ゆで野菜?と白身魚の切り身半分の煮つけ。ストローをさして飲むトロミ栄養補助ドリンク。全てぬるいし味見したドリンクは強烈に不味かった。これでは健常者でも萎える。そもそも自宅で作るような献立を、わざわざ他人の味付けで供されて病人の励みになるのか。
だからといって「食べない」と言い出すのは想定外だったけど。
筋肉を作るのはたんぱく質だから、肉・魚・卵などをバランスよく食べなくてはならない。
特に高齢になると体の機能全般が衰えるから、消化・吸収の力も落ちる。つまり同じ量を食べても若い人より吸収できないということ。だから無駄を覚悟で多めに食べなければならない。でも一気にたくさん食べられないから、朝からしっかり肉を食べ、3食を通して多種多品目をとることが必要。確かに、100歳越えの元気なおばあちゃんが「スキヤキが大好物」というような話もよく耳にするし。
ちなみにお肉が苦手な人も、牛乳やヨーグルトでもたんぱく質は摂れます。常温で個体の肉脂食よりも、水分に溶けている水分は口にしやすく、消化吸収をする負担も軽い。私は何度もポタージュを作って母の入院する京都へ運んだけれど、これがまた「牛乳嫌い」だったことを思い出し、、、。
還暦を迎えたら人生も一巡したと考え、いままでの食や生活を見直すべき。
急に「精進料理」とか「殺生禁止」とか「ベジタリアン」とか言い出さなくても、ちょっとの工夫でいいはずなんです。
それも「元気なうちに」始めて、なんとか生活に定着し、習慣化するところまで頑張る。これがもっとも重要なんです、難しいんだけど。
どなたか、いい方法知りませんかね?