私達は、他者の考えや説明したい何かを、その人に替わって表現してあげることが仕事になっている。しかもほぼ100%全てが依頼主の名義によって公表されるもので、私達が関わっているということすら表面化しないものが殆ど。うまく行っても、行かなくても、私達が関与したことは表に出ない。考えようによっては達成感の得にくい、ちょっと寂しい商売かもしれない。
だからこそ、それでもいい、と思える人しか向いていない。私は当社の以前のウェブサイトに、アイデアパンチは“陽のあたる黒子”をめざす、と表現したことがあるが、それは“ステージに上がらない脇役”でもいい。つまりそういうことで、自己顕示欲の強い人はあまり向いておらず、他人に献身的になれる人ほどやりがいを見つけられる商売だと思っている。
では、人のためなら何でもやれる、という人なら誰でもできるかと言うと、これまた難しい。商売だから、相手の目的に叶うと同時に、私達の利益にならなければならないが、ここでビジネス論になると話がずれてしまうので、それはまたの機会に譲るとして。
世の中には「たとえ頼まれても、もらいたくない」ものがあって、私達の生産物がそうなってはいけないと思っている。「もらいたくない」ものには無くて「もらいたい」ものにはある。そこにある「価値」というものが読み取れないと、実は要るものと要らないものの違いが分らず、製作物は作れない。
私の学生時代の恩師に松浦先生という人がいて、もう鬼籍に入ってしまったが、生徒の作品を評価するのを「ゴミ」と呼んでいた。
技術が優れていたり、時間をかけて丁寧に作られたものは「立派なゴミ」と呼んでいた。そして生徒の作品の殆どが「ゴミ」呼ばわりだった。当時はただ笑っていたけれど、今はその意味がよく分かる。その製作仕事を通して生み出した価値が伝わってこないから、それは単なるゴミだということだ。
日本語を正しく適切に使っていれば当然相手に伝わるもの、という誤解に人は陥りやすい。
それで伝わるのであれば、表現の工夫なんか要らないことになる。話す相手の先入観や人生経験、育った環境、置かれた状況、世代、性別、さらには体調や気分によって、選ぶ言葉が違い、口調が違い、話す順序が違ってくる。
同じように、自分が何かを話す上で選んだ言葉は自分の先入観というフィルターから出ている。「(あの人は綺麗だから)私もああなりたいわ」と他人に言っても、(あの人は綺麗だと思っていない)人には「私もああなりたいわ」の意味が通じない。
そんな誤解は日常にゴロゴロあって、そのギャップを埋めるところからスタートしないと、仕事の価値を作るという本来の目的には届かない。ところがみな急いで自分の思うことを勝手に話してしまう。お互いの会話のスタート地点にそもそもギャップがあるという前提に立てない。「そう説明したけれど通じない」という報告を社員から受けるたび、私は「きちんと伝えきれないあなたが悪い」と返答するので、大抵の皆が不満顔になる。しかし当社は他者の考えや説明したい何かを、その人に替わって表現してあげるプロなのだから、その仕事のために交わしたわずか1回のやりとりすら通じないようでは話にならず、単なる伝達ミスでは許されない意味を含んでいる。
仕事の価値を作るのは想像力である。一朝一夕には身につかないからこそ、この商売でメシを食うぞという覚悟をもって、その上で若いうちに得た一つ一つの経験を豊かな感性でかみしめ、様々な立場や思想に気づくことに繋げていく。それを少しでも数多く持ち合わせるような人間にならなければ、いい仕事ができるようにはなれない。仕事には、性格やその人の持つ人間性が色濃く出るものだから。
ちなみに、私が尊敬している先輩のひとりがウェブサイトに書いていた言葉をつい最近見つけたので紹介します。
「寝る時間を惜しみ、人の3倍努力しないと、人を追い越すことはできない。そして、世界を目指すと公言しなければ、日本一にはなれない」。
根性論ではないけれど、結局は「努力にまさるもの無し」ということかも。
(飯島)