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働く女の、これからは

 「女性は」とひとくくりで見解を述べた政治家が、「年寄り」でくくられて不快だったらしい。痛快だと笑っていたら事態はどんどん進み、もしや東京オリンピック開催以上のレガシーになるかもしれないと期待が高まる。何が王道かという議論は、表立って立派な人たちがおやりになるとして、地道に働いてきた女性がどう考えているかを書いてみたい。

働き始めて30余年、ここ日本で働いてきたすべての女性全員が「女性」を理由に理不尽な思いを経験してきている。聞いたわけじゃないが、間違いない。「なんだ女か」も「しょせん女だし」も「女だと相手が怒る」も「もっと女をアピールしろ」こういうもろもろ全てを、雨が降れば傘をさすように聞き流してきた。私は社会人2年目のとき、顧客の社長から「飯島は俺の好みの女じゃないんだ。いや不細工だとまではいわないよ、俺も優しいからさ。イヒヒ。でもおたくの○○(別の女性)に変えろや」と上司づてに聞かされた。仕事はうまく回っていたし、自社の社長が述べた偏見を恥ずかしく思った顧客の皆さんが懸命に反対してくれて担当にとどまったが、このような経験は私だけじゃない。昔の出来事を恨みがましく蒸し返しているのではなくて、女を相手にしなかった1990年代、煙たがられた2000年代、ちやほやと褒め殺しされた2010年代、これら30年間に日々あった不快感のうちの“たったひとつ”であって、それらを一生懸命忘れてこられた人が「働く女性」として今の社会に残っている。

酒席に参加してお酌するのも、爺さんが喜ぶからという理由だけで呼ばれるのも、いちいち怒ってきていない。手を握られても、太ももを撫でられても、その手をどかしてかわしてきた中で唯一の希望の光は「仕事の評価」だった。結果さえ出せば「女だから」の入る余地がないと考えて、そのために深夜まで働き、泥もかぶれば、恩も売るし、シブい交渉も、駆け引きもしてきた。若気の至りで、おじさんを出し抜いて仕事を取って、恨みをかって逆襲されたこともある。「女だけどやるもんだなぁ」を聞き流して、わずかに聞こえてくる「男女を抜きにした客観的な評価」のみに耳をすませて咀嚼し、決してぬか喜びせず、心の中にまで細心の注意を払ってきた。雨ニモマケズ、みたいね。それでもあとから「女だから」と付け足されたときは「女だから評価された訳ではない」といちいち反論してきた。それは、一点の曇りもなく正当に評価されたいから。ただそれだけを渇望してきたと思う。

でもそうじゃない女性もかなりいた。

女だからと差し出された高下駄を喜んで履き、飲み会では積極的に女らしさを出し、誰でもいいからと回ってきた枠に喜んでエントリーする人。「女同士だから、ねー。」と同意を求め、勝手に「同じ立場」に引きずり込み、あの人は特別だからと他人の評価にまで下駄をはかせる人。こういう女性は嫌いで距離を置いてきたし、同じ気持ちの女性も多いと思う。

そもそも「正当な評価」というのは難しい。冷静で、人間の機微に聡く、私欲に引きずられない大人が運用してこそ実現するもの。しかしここ近年の日本はどうだ。感情的で欲深く、人の気持ちがわからない人が立場を濫用し社会が混乱している。2020年代は立ち回りが上手いだけの女性が登板する「女性活用」に逆戻りしないことを心から願っている。

 

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